【プノンペン】カンボジア情報サービス代表、ニョニュム代表 山崎 幸恵(やまざき ゆきえ)

関係する日本人

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日本からカンボジアに

短大ではマスメディアを勉強していた。様々な海外情報がテレビや新聞などからは入ってきたが、カンボジアの情報の多くはネガティブなものであった。一方通行の情報、現地には本当はもっと楽しいことも多く、良いこともあるのではないかと思っていた。そんな思いもあり、実際に自分の目でその現場を見てみたいと思った。いつか海外に出る。その思いもあり、学校卒業し日本語教師資格を取得した。

カンボジアでは内戦が終了し、1993年に総選挙が行われることになった。そのため、カンボジアの状況や、選挙の様子などがテレビで流れることが多くなっていた。地雷、内戦、貧困、そして悲しそうな目をした人々。この国を見てみよう。その思いから募集していた青年海外協力隊に応募した。

1994年7月、日本語教師としてカンボジアに派遣された。飛行機から降りると小さな女の子がニコッと微笑んだ。良い国だと感じた。観光省に派遣され、プノンペンでガイド養成の講師として勤務することとなった。1992年にアンコールワットが世界遺産に認定されていたこともあり、日本語ガイドの需要が高まっていたからであった。当時、シェムリアップ行きの直行便がなかったこともあり、一度プノンペンに到着した後、飛行機でガイドと一緒にシェムリアップに観光に訪れるというシステムであった。

翌年4月、任期途中ではあったが病気のため、日本に帰国することになった。悔しかった。自分はこの国では何もしていない。いつか戻ってこようと心に決めた。1年間日本に滞在し、派遣のアルバイトで百万円を貯めた。

1996年4月、再びカンボジアに戻ってきた。しかし、仕事も決まっておらず、やる事もなかった。せっかくの時間を無駄にしないようにするため語学を学ぶことにした。実際にカンボジア人が何を考えているのかを身近に感じるために大学に入学し、勉強したいと思った。しかし、当時外国人の私費留学システムはなかったため、自ら首相宛に手紙を書き、教育省に持ち込むことにした。持ち込んだ手紙は教育省内で話し合われ、入学が許可されることとなった。

大学では社会人文学部クメール文学を専攻することとなった。外国人は自分一人と言う環境で勉強する日々。午前の授業が終わると、午後はクメール語の先生をつけて個人レッスン。生活費を稼ぐために、ガイドとしてアルバイトなどやったりもした。

学校は楽しかった。しかし一緒に学ぶ同級生の多くはどことなく自分達、そしてカンボジアに自信がないようであった。明るい未来を感じている者はいなかった。

卒業する前に現地新聞の翻訳サービスビジネスを開始した。また1998年、初めて通訳の仕事を行った。2000年、学校を卒業し、本格的に通訳としてフリーランスで仕事を始めることにした。

 

微笑みの雑誌・ニョニュム創刊

カンボジア伝統陶器プロジェクト開始

(こちらの記事は書籍版でご紹介しております)

 

今後のカンボジアと自分の挑戦

会社を始めた頃、自分もスタッフも未熟者同士だったこともあり、自分の思いがなかなかスタッフに思いが伝わらなかったんですが、今は自分と同じ思いを持ってくれている人達が集まってくれています。その秘訣は、と考えたときに、長く続けていくことが大事だと思いました。新聞翻訳10年、ニョニュム10年、通訳13年、ショップは5年、陶器プロジェクトも5年、ひとつひとつ、自分が納得できる仕事を継続してやってこれたことが成功の秘訣だと思っています。

カンボジアに来て、良い意味でも悪い意味でも日本の事を客観的に見られるようになりました。失敗したなと思うことは婚期を逃したことくらい。今後も、カンボジア人が中心となって活躍出来るような会社を作っていきたいと思っています。

笑顔がある国を日本がつくっていければと思います。日本から来る人は、謙虚な気持ちでカンボジアに来てください。来させて頂いている、この国で生活させてもらっているという気持ちを持ってこの国を楽しんでください。

 


 

山崎 幸恵 (やまざき ゆきえ) 

出身: 神奈川県

学歴: プノンペン王立大学社会人文学部クメール文学科専攻、主席卒業

職業・業種:カンボジア情報サービス代表、ニョニュム代表、通訳、会社役員

座右の銘: 成功の反対は何もしない事

趣味: 音楽、カラオケ

カンボジア歴:1994年より1年滞在、一時帰国後、1996年より在住

ウェブサイト: http://nyonyum.net/

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