J14_Osanai

学生時代

子供の頃はぼんやりと、お嫁さんになるんだろうなと思っていた。通っていた女学校は良妻賢母を教育していた。お転婆娘でも良妻賢母になる、卒業した翌日には結婚できるような教育を行う学校であった。中学2年の2学期から、文部省から通達があり学校ではなく軍需工場で働くことになった。その翌年、自分が15歳の時に日本は終戦を迎えた。

戦後、学校は変わっていった。GHQから民主主義を教育するように通達があり、学内で部活動も始まった。最初に始まったのが演劇部であった。近所に映画館があり、赤ん坊の頃から映画を見て育ってきた。映画を見に行くのは不良と言われていた時代であったが、誰にも見つからないようにこそこそ見に行っていた。同級生から何度となく先生に密告され、怒られていた。

演劇部の顧問には、頭が良いだけの先生がなった。しかし演劇というものがまるで分かっていなかった。観客に背を向けながら芝居を行っていることを指摘すると、 「じゃああんたがやりなさい」と言われた。だから自分が演出を担当することになった。

大学進学した女性には、嫁の貰い手はないと言われていた時代、苦労して勉強するのも嫌だと思い、新聞に出ていた映画学校に行くことにした。素晴らしい監督が講師だと掲載されており、戦前にあった映画学校の再開と思って入学したが、実はいんちき学校であった。学校で監督になりたいと言ったら、女性の監督は無理だと言われた。どうしてもなりたいならシナリオライター(脚本家)かスクリプター(記録係)になりなさいと言われた。それで、そのいんちき学校を辞めた。

1951年、映画制作に参加した。撮影現場で監督の近くにいられる仕事という事でスクリプターをやることにした。プライベートでは結婚し、子供も誕生した。家でもできる仕事という事でシナリオを書き始めた。それまでに十分に書けるだけの経験は積んできていた。1962年、NHKの「残りの幸福」でシナリオライターとしてデビュー。その後も、多くの作品を世に出し、「3年B組金八先生」や、「翔ぶが如く」「徳川家康」なども執筆してきた。

 

母を見送り、新しい活動としてヨルダンに
資金が底をついた。しかし活動はカンボジアに残すことに…

(こちらの記事は書籍版でご紹介しております)

 

JHP・学校をつくる会の活動、そして自分のやるべきこと

最初は難民支援から始まった活動であるが、その間には様々な活動が行われ、活動・エリアは多岐に亘っている。学校建設はカンボジアやネパールで行い、小学校だけでなく中学、高校も、そして教員養成学校には多目的教室などを建設している。音楽教育支援では、音楽教師の育成、音楽コンテスト、マーチングバンドの活動、そして日本で集めた楽器の支援。美術教育では美術教師の育成と啓蒙、そして普及活動を。児童養護施設として、ゴミ山で生活していた孤児を支援している「幸せの子供の家」を。また、地球的市民の育成を目的として日本から延べ千人以上のボランティアを国内外へと派遣した。そして国際ボランティアカレッジでは、「知恵のある人は知恵を!行動力のある人は一緒に汗を!」をモットーに、将来的な人材育成を考えた、国際協力、多文化共生など実践的な活動を行ってきた。その他にも、各種チャリティイベント、スタディツアー、他の様々なNPO団体との連携、情報交換などを行っている。

今後も、活動は続けていくが、特別な事情がない限り活動範囲はこれ以上広げる予定はない。既存のものをしっかりと。そう考えている。

 

 


 

 

小山内 美江子(おさない みえこ)

出身: 神奈川県

学歴: 鶴見高等女学校

職業・業種: 認定NPO法人JHP学校をつくる会代表、国際ボランティア・カレッジ塾長、東京未来大学客員教授

カンボジア歴: 1992年初訪問、以降定期的に訪問、現在は日本在住

ウェブサイト: http://www.jhp.or.jp/

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