【バッタンバン】NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)理事長兼現地代表 高山 良二(たかやま りょうじ)

関係する日本人

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カンボジアに

2002年5月、自衛隊を定年退官し、その4日後にはカンボジアに到着していた。自分の経験を活かし、東京に本部をもつ地雷撤去団体の現地副代表としてカンボジアで不発弾処理活動の立ち上げを行うことになった。現地では様々な仕事を行わなければならなかった。カウンターパートであるCMAC(カンボジア地雷対策センター)との調整、補助金を受けるために日本大使館との調整、実際にプレイベン州で不発弾処理を開始するために宿舎の借上げなどの準備、そして東京本部の理事。様々な業務が絡み合い、決して順調とは言えないスタートとなった。

そんな状況からか、到着して2週間後、心に病を抱えることになった。精神的に不安定で、急に強い不安感が襲ってきた。プレッシャーだけで言うとPKO時代の方がもっと厳しかったはずである。強度のホームシックかとも考え一時帰国したが治らず、その理由は分からなかった。実際に医師にかかった訳ではなく、自分でも良く分からない状態ではあったが、自分でそう思うほど精神異常の状態が続いた。

7月から不発弾処理活動が本格的に開始された。しかし自分がやろうと思っていた地雷処理に関しては許可が下りなかった。不発弾処理と地雷処理は経費的に大きく異なっていたことが理由であった。不発弾処理の場合、少人数で活動が出来るため年間四千万円程度の費用となるが、地雷処理だと30人程度で活動せねばならず、六千万円から七千万円ほど必要となった。外務省からの援助という事もあり自分たちだけで決められるわけでもなく、容易には出来なかった。

2004年9月、日本に戻ることになった。精神状態がピークになったからだ。愛媛で広報活動を行い、地雷処理事業の立ち上げを準備をしながら、再びカンボジアに戻ることを考えていた。

2006年2月、地雷処理の活動ができることになり、再びカンボジアに戻ってきた。地雷処理事業の準備を行い6月から活動を開始した。今までとは異なり、そこに住む人たち自身が参加する地雷処理活動を実施した。地元の人々の反応もよく、活動は順調に回り始めていた。しかし、翌年1月19日、対戦車地雷の爆発事故で7人の隊員が殉職した。活動開始から半年が経ち、隊員たちも気が緩み始めた頃であった。自分自身の日々の業務の忙しさから、隊員たちに対して適切な指導を欠いたのが原因であった。

 

国際地雷処理・地域復興支援の会立ち上げ
思いと、その他の活動

(こちらの記事は書籍版でご紹介しております)

 

自分の信念と今後の挑戦

今の自分のモットーは「信念」です。PKOでこの国に来るまでは、行き当たりばったりで優柔不断という生き方だったこともあり、カンボジアでは納得のいくまでやろうと思ったからです。今までは自分にとっては練習でした。そして今からが「人生本番」です。大変なことも多かったですが、今は自分の責任で、自分が思っている活動をやっています。

また、今、自分がやっていることはある意味、官行政に対する挑戦だと思っています。自分が官サイドで10年近く地雷処理を行い、今は民間サイドでの地雷処理を行っており、両方の経験をしてきました。その結果言えることは、官の経費は実に無駄が多いということです。

官の地雷処理団体では年間予算八千万円、百人で30から40ヘクタールの処理を行っていましたが、民間である自分たちの団体では5人で多く見積もっても六百万円の予算で25ヘクタールの不発弾・地雷処理を行っています。お金がない団体だからこそ、工夫しながら無駄な経費を削り、本当に必要な部分のみの予算で出来る限りの事をやる。そして現地に理事長兼現地代表がいるからこそ、スピードの速い決断や無駄な問題もあまり発生しない。

今後も本質を踏まえて、民間ならではの動きで、成果を出していき、自分の信念に沿って恥も外聞もなく、遠慮世借なくやっていこうと思います。

 


 

 

高山 良二 (たかやま りょうじ) 

出身: 愛媛県

学歴: 愛知大学卒業

職業・業種: NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)理事長兼現地代表

座右の銘: がんばるな、楽しめ

趣味: ゴルフ

カンボジア歴: 1992-1993年に滞在、2002年5月より在住

ウェブサイト: http://www.imccd.org/

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