カンボジアに
大学を中退し外務省に入省した。外務省と言えば、堅苦しいイメージがあるが、概して自由な雰囲気がある。採用試験という事もあり、大学中退で入省する人も多い。
初めてカンボジアに来たのは1967年7月であった。研修生として、3年間の予定でクメール語を学び、カンボジアの歴史や文化を勉強をするのが与えられた仕事であった。アジアの国に学び、働きたいと思っていた。
現地の事情でプノンペンで勉強することになった。当時外国人にクメール語を教えている唯一のプノンペン王立大学に行くと、カンボジアと日本との間には文化協定がないので受け入れられないと断られた。教室を覗いてみると、似たような顔立ちの人たちが学んでいた。北朝鮮からの留学生であった。北朝鮮と中国など社会主義諸国は協定を結んでいたからだ。
当時、カンボジアのインテリ層はクメール語は話せても読み書きができない人が多かった。フランス語教育を受け、フランス語で会話することがステータス・シンボルであったからである。こういうインテリ層からはカンボジア語を学ぶよりもフランス語を学んだ方が良いと言われた。カンボジアを理解するにはクメール語は必須であるのに何を言っているのかと反発を覚えた。
結局、お寺で勉強することにした。最初の1年間は長期滞在用のホテルから毎日モハニカイ派の総本山ウナロム寺院に通って勉強した。1年後のある日、カンボジア仏教界の中興の祖と言われるチュン・ナート大僧正から呼ばれ、仏教に興味があるなら僧になっても良いと言われた。仏教には関心があったので、お寺に住み込んで得度式に唱える経を習うことになった。3ヵ月後に得読式があり、僧となった。結局その後7ヵ月間お寺で過ごし、還俗して大使館に勤務することになった。カンボジアの政治情勢が激変したことも影響し、3年の研修期間は2年で終わった。
絶対的な権勢を誇ったシハヌーク殿下(国家首席)の権威が揺るぎ、政変が起こる前兆が現れていた。大使館に語学の専門家は一人でも多く必要であった。刻々と変わるカンボジアの情勢をフォローする日々となった。シハヌーク殿下の巧みな外交で平和を保ってきたカンボジアも1970年3月、ついにベトナム戦争の渦中に巻き込まれた。
日本への帰国、カンボジアへの旅立ち
シーセフに参加、そしてやるべきこと
(こちらの記事は書籍版でご紹介しております)
若者たちへのメッセージ
今、私が感じていることは、日本の若い人たちの行く末です。一部の若者は積極的に国際社会に飛び込んでいるが、多くの若者は、国内のぬるま湯につかって動こうとしない。
日本はもっともっと国際社会に出なければいけない。欧米傾倒ではなく、成長著しいアジアの人々と一緒にやっていくことだと思います。今までの「欧米に学べ」から、さらに「アジアで学ぶ」ことも積極的にやってほしい。
日系企業は決断が遅すぎる、リスクをとらないなど、慎重さのみが目立っていますが、国際社会の中でリスクを取らずに、儲かる事ばかりを考えていては、やがてアジアのなかでも孤児となり、これまで得てきたアジアの人々からの信頼を繋ぎとめていくことは難しくなります。少なくとも私はそう思っています。
篠原 勝弘 (しのはら かつひろ)
出身: 東京都
学歴: 横浜市立大学中退
職業・業種: シーセフカンボジア現地代表、副理事長
座右の銘: 自分に対しても誠実であれ
趣味: 読書、運動は何でも好き
カンボジア歴: 1967年より一時駐在、現在在住中
ウェブサイト: http://www.ciesf.org