【プノンペン】CAMCAL 社(建設業)相談役 神崎 紘邇 (かんざき こうじ)

関係する日本人

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海外赴任初のカンボジア

初めてカンボジアに訪れたのはベトナム戦争が激しい1969年、25歳の時であった。初めての海外赴任であり、コンポンスプー州の山奥で行われていたダム建設のために会社から派遣されていた。現場仕事の最中、天気が良い日には、山の向こうから大きな雷のような音が聞こえてきた。上司からはベトナム戦争で落とされる爆弾の音だと聞かされた。

1970年、国道4号線の橋が反政府勢力のロンノル軍によって破壊されたため、食料や工事機材の運搬ができなくなった。空港は閉鎖されており、帰国もできずにプノンペンのホテルで待機することになった。

市内では夜間照明弾が打ち上げられ、銃声を聞きながらホテルの窓から眺める日々であった。しかし待機中も現場には何度も足を運んでいた。午前中(暑くなる前)は国道を挟んで撃ち合いが行われていたが、10時を過ぎると暑くなるため、撃ち合いが止まる。その間に現場へ行った。しばらくして空港は再開し、帰国した。

その後、マレーシアのペナン空港工事のため3年間駐在し、それが終了するとタイのドンムアン空港工事へと赴任した。

空港の隣には空軍基地があった。当時、空港事務所脇には、何百人ものカンボジア避難民がアメリカやヨーロッパに難民として行くために自分の番を待っていた。駐機場に停められていた飛行機を見るとエアカンボジーと書かれていた。中を見せてもらうと、椅子は全部取り払われ、床には板が張られていた。少しでも多くの難民を運ぶため取り払われたのだろう。

1987年には、ダム工事の再開が可能かどうかカンボジアに調査に訪れた。政権は、シハヌーク政権からロンノル政権に変わり、その後クメールルージュ政権、ヘンサムリン政権と変わっていた。

プノンペンの空港には誰も居らず、ホーチミンで入国手続きをした。空港に着くと、荷物は自分で飛行機から降ろさなくてはならなかった。到着したホテルの玄関にはホーチミン翁の等身大の写真が飾られており、これはレストランでも、役所でも同様であった。道路の真ん中はごみの山となり、家屋には銃弾の痕が残っていた。銃を持った兵士も多く、市民の姿はあまり見かけなかった。

あの美しかったカンボジアはどうなったのだろうと思った。「よーし。俺がまたもとのカンボジアに取り戻してやる!」心からそう思った。

 

活気のあるカンボジアの再生。人材育成と今
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今後のカンボジアとの関わり

これまで私自身をさらけ出して来ました。さてこれからはどうする?

今更どうしようもないし、どうにでもなれ!と言いたいところだが、そうはいかん。生きている限りは働かなければならないし、喰らっている限りは働かなければならないと思っている。誰かに出来ることであれば俺に出来ないわけはない!そう言ってきた手前逃げる事は出来ない。

今後は少し優しく自分自身を見直し、カンボジアのために何が出来るか、改めて考え直したいと思う。これからもお付き合いのほどをよろしくお願いしたい。

 


 

 

神崎 紘邇 (かんざき こうじ) 

出身: 熊本県天草郡苓北町 (頼山陽の「天草灘に泊す」の碑が有る町)

学歴: 熊本工業高校 土木科

職業・業種: CAMCAL 社(建設業)相談役

座右の銘:働かざる者喰らうべからず

趣味: 読書、散策

カンボジア歴: 1969年初赴任1年間、1990年より在住

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