シェムリアップで内戦の傷跡を見た 八巻篤史

インターンシップ

今回、初めてカンボジアにやってきた。シェムリアップに3日間滞在する中、今なお残る内戦(1970~91年)の「傷跡」の数々を垣間見た。キリング・フィールド、犠牲になった日本人カメラマンの存在、生活を続ける元兵士の人々等。その模様をお伝えする。

カンボジア内戦とは

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(出典:イ課長ブログ

まず、カンボジア内戦の背景を簡単に紹介する。第二次世界大戦終了後、カンボジアはシハヌーク国王の下でフランスから独立。1970年、ベトナム戦争に巻き込まれる形で、アメリカの支援するロンノル政権によってシハヌーク国王が追放され、内戦状態に突入。ポル=ポトらに代表される共産主義勢力がアメリカへの服従を拒否して蜂起。1975年から79年まで独裁政権を築いたが、ベトナムの介入で倒れ内戦が再発。1991年、国連の介入によってカンボジア和平協定が成立し、22年にわたる内戦が終結した。

虐殺の舞台:キリングフィールド

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ポル・ポト政権下で大量虐殺が行われた刑場跡を訪れた。秘密警察である「サンテバル」は、知識人・音楽活動家・教師・宗教関係者などの文化人たちを潜在的抵抗者とみなして次々と殺害した。眼鏡をかけているだけで殺された人々もいたという。キリングフィールドには、犠牲になった人々の頭蓋骨や、拷問の様子を描いた絵が展示されている。最初に頭蓋骨を見た瞬間、目を疑った。敷地内にはストゥーパ(仏塔)が並び、僧侶や見習いの方たちが暮らしてもいる。絶え間ない慰霊が今も続いているのだなと感じた。現代のタイやベトナムに比べて、カンボジアの経済発展が遅れている理由は、知識階級の大量虐殺による低迷が原因ではないかとも思った。シェムリアップの学校も、子供の数は多いが教師が少ないため、朝夕の二部制で行っている。

狙われた遺跡群

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(出典:バス観光Magazine

アンコールワットを訪れた際も、注視してみた。内戦は世界遺産にも暗い影を落としている。シェムリアップのおよそ50%の遺跡が内戦によって破壊されたという。「戦争がなければ、貴重な遺跡の数々でカンボジアはもっと世界的に認知されている」と現地人ガイドが話してくれた。ことごとく首が折られた石像たち(「乳海攪拌」というヒンドゥー教の天地創造の神話のモチーフ。シェムリアップの遺跡の至る所に点在)。遺跡が狙われた理由としては、地元住民が政府軍の接収を防ぐためにその土地で抗戦したこと、クメールルージュ(ポルポト派)が政権を追われた後アンコールワットに落ち延びて籠城したこと、また、共産主義(反宗教)勢力である彼らは見境なく宗教像を破壊したこと等が挙げられるという。ほとんどの石像は見るも無残で、いたたまれない気持ちになった。アンコールワットに撃ち込まれた銃痕も見つけた。

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カンボジアに散った日本人カメラマン

「傷跡」の話から少し逸れるが、カンボジア内戦で命を落とした日本人がいると知った。1973年11月、カンボジア内戦を取材中、アンコールワット付近で消息を絶った一ノ瀬泰造さんだ。一ノ瀬さんの写真はアサヒグラフ、ワシントンポストなど国内外で取り上げられ、若手のカメラマンとして評価される程の腕の持ち主だったという。1982年に両親によってその死が確認され、26歳の若さでこの世を去った。その一ノ瀬氏の埋葬場所と言われる菩提樹の木が、アンコールワット敷地内にあった。

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初めに盛り土の墓があり、後に木が植えられたという(ガイド談)。遺骨は三分割され、アンコールワットの菩提樹、シェムリアップ郊外プラダックの白い墓、日本の家族の元でそれぞれ眠っているという説がある。(ちなみに、プラダックの白い墓へ、宿から自転車で片道2時間をかけて捜索の旅をしたが辿り着けなかった。帰り道は日が沈み、真っ暗な森の中の道を自転車でひたすら走り、半ば生死の狭間を彷徨った。)個人的には、現地の人々の認知度や具体的なエピソードからして、遺骨の分割説が有力だと思った。彼の著書『地雷を踏んだらサヨウナラ』(講談社)も、あくなき情熱と当時の現地の空気感に溢れていて、臨場感のある一冊だ。

「傷跡」を抱えた人々

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街角や遺跡の建物近くで、内戦(もしくは間接的に地雷)で手足を失った人たちの姿を見かけた。なぜか直視できない後ろめたさを感じている自分がいた。観光客向けに楽器の演奏で生計を立てる人や、遺跡の中で物乞いをしている人もいる。カメラをかざすのは躊躇(ためら)われた。物や場所でなく、今を生きる人々の身体にも、戦争の傷跡が鮮明に残っていた。個人的にはそういった姿に、戦争というものの実感を最も強烈に覚えた。

おわりに

来る前からカンボジアの内戦に興味を持っていた。カンボジアに行った経験のある友達から内戦の跡の話を聞いていたからだ。今回自分で来てみて、話や文字で知るしかない「知識」が、五感で感じることができる「経験」に変わって、自分の中で動かぬ真実になったと思う。悲惨な戦争を経験して間もないにもかかわらず、カンボジアの人々は屈託なく、逞しいなと思った。クメールルージュはシェムリアップだけでなく、カンボジア各地で虐殺を行ったという。大量虐殺により教育面での低迷を余儀なくされているカンボジアだが、人々の間に「記憶」が刻まれている限り、困難な未来に向けて発展する際の土台(=アイデンティティー)は揺るがない。未来を知ろうとすればする程、人は過去に戻ってこなければならない。歴史の「つい昨日のこと」を、シェムリアップは教えてくれた。

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2016/12/29 八巻篤史

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